215576 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

沖縄自治研究会

沖縄自治研究会

沖縄自治憲章(案)について

「沖縄自治憲章(案)」について
前津 榮健(沖縄国際大学教授)


1.はじめに 
北海道ニセコ町が、2001年4月、わが国初の「まちづくり基本条例」を制定して以来、各地で「まちづくり基本条例」、「自治基本条例」、「行政基本条例」等の名称の条例が、次々と制定されている。これらの動きは、2000年の分権改革を契機とするものであるが、1985年に沖縄で、すでに近年の動きを予測したかのような、そして沖縄の現状に見合った「生存と平和を根幹とする『沖縄自治憲章案』(案)」(以下、憲章と呼ぶ)が作成されていた。この憲章は、当時沖縄国際大学で教鞭を執られていた玉野井芳郎教授の提唱により、同大学の西原森茂教授(政治学)、大林文敏教授(憲法)、琉球大学の仲地博教授(行政法)の三名の研究者が研究会を立ち上げ草案を作成し、その後、玉野井教授が手を加え、纏められたものである。
内容的には、玉野井教授の理念、思想が強く反映されたものとなっているが、今後、沖縄で自治基本条例を検討する際のモデル案として、現在でも充分検討に値する内容となっている。
本稿では、この憲章の背景にある、玉野井教授の唱える地域主義、自治体「憲法」の必要性、なぜ沖縄で必要なのか等について、教授の考えを紹介した後、憲章を概観してみたい。(尚、本稿は、研究会報告に若干加筆、修正を加えたものである。)

2.玉野井教授の経歴
 最初に、憲章の意義と内容をより深く理解するために、憲章の必要性を提唱し、憲章の内容に影響を与えた玉野井先生の経歴(注1) から紹介してみたい。教授は、1918年に山口県柳井市で祖父の代から続く玉野井ガラス店の長男として誕生した。当初は家業を継ぐことをめざし、山口商業高校に進学したが、そこで哲学者の滝沢克己さんと出会い、それが転機となって方向転換して、東北帝国大学の法文学部経済学科に入学した。42年に同大学の助手に採用され、44年講師、48年には助教授に昇任、その後、51年東大の教養学部助教授に就任した。最初の著書は54年の「リカアドオからマルクスへ」である。当時教授は経済学史の講義を担当していたが、東北大学の頃からマルクス経済を研究の中心に据えていた。60年に教授に昇任し、ハーバード大学に留学、その後、近代経済学を研究し、従来のマルクス経済学から近代経済学へと学問分野を広げていった。
 しかし、経済学者の中からはその点に対する強い批判があり、奥様と長女の方の先生を語る一節(注2) の中に、それに関して苦悩された時期があったということが述べられている。
 76年に東京で、これからの時代は中央集権に対して地域主義であるとの認識から、「地域主義研究集談会」を結成し、その後、78年4月に沖縄国際大学に赴任したが、同年7月には沖縄においても同様な趣旨から「沖縄地域主義集談会」を設立、また80年には「平和をつくる沖縄百人委員会」を結成し、琉球新報社長の池宮城秀意氏、それにタイムス社顧問であった豊平良顕氏と共に代表世話人となった。そして85年3月に「生存と平和を根幹とする『沖縄自治憲章(案)』」を取り纏め、百人委員会に諮ったが賛同を得ることはできなかった。その後、同年4月沖縄を離れ、明治学院に移ったが、同年10月に享年67歳で死去された。
 玉野井教授は、経済学者として数多くの業績を残すと共に、沖縄では、「理論家」(注3)、「実践家」、「啓蒙家」として活躍された著名な学者であった。

----------------------------------------------

1 「玉野井芳郎教授経歴(年譜)」 玉野井芳郎著作集第4巻『等身大の生活世界』学陽書房1990年326-328頁。室田武「日本近代と玉野井芳郎」 新沖縄文学86号 1990年 10-17頁参照。
2 玉野井喜美子・岡部佳世「思索し、語りかけ、沖縄を愛した人」 前掲・新沖縄文学125-126頁。
3 屋嘉比収「7年間における玉野井先生の思想の深まりとその波及」『わいさぁ-い(玉野井芳郎先生沖縄7年間のあゆみ)36-47頁。

------------------------------------------------

3.地域主義とは
 玉野井教授が主張し、憲章の基礎となる「地域主義」について、「地域分権の今日的意義」(注4) という論文から紹介したい。まず、教授は、当時の状況を次のように捉えている。
 教授は、「日本では、明治以後に近代を経験しながら民族と国家と社会は一つのものに重なったまま現れている。そのような同質社会であるところに、さらに一点中心性が加わったのであるから、まさしく異常で例外的な状況がつくりだされることになる。国民的エネルギーの大半が東京に集中し、東京があたかも全国を支配するようなかたちでの国民生活が現出するにいたった。国民の顔はみな東京に向いており、地方のどの都市へ行ってもミニ東京やミニ銀座がつくられて、全国画一のおもしろくない都市や地方生活が多くなっている。
 それゆえ、国民の巨大なエネルギーを今や東京から地方へ逆流させて、個性と多様化に満ちた国民生活を再生させることこそ、現代日本の百年の計と考えなければならない。地方から欠落した地域的個性を再生させ、伝統と文化に地域差に満ちた多様性の中に新たな国民的統一を求めるという方向なのである。その方向に即して、東京という中央もまた、単純な中央という存在にとどまらないで、一つの個性的地域へと還元させなければならない」(注5) と、まずその状況を指摘している。
次に、「地域主義」について、次のように定義している。「地域主義とは」とは、「一定地域の住民が、その地域の風土的個性を背景に、その地域の共同体に対して一体感をもち、地域の行政的・経済的自立性と文化的独立性とを追求することをいう」(注6) と定義している。そしてその考えが、後述する憲章の前文や、とりわけ、第7条「シマの生活」、第8条「地域文化」、第10条「相互扶助と共同性」、第11条「自然の共有」の中に反映されている。
また、玉野井教授は、「地方」ではなく「地域」という用語を使用しているが、なぜ「地方」ではないのかという点について次のように説明している。
 「『地方』という言葉は、一点中心型の日本でいえば、中央に対する地方という反対概念になります。・・・『地方』は・・・非文明的という意味で考えられてきた傾向があり・・・いまやそういうコンプレックスから地方が脱却する必要がある、という意味では『地域』という言葉のほうが望ましい・・・中央もまた一つの地域的地方としてとらえられなければならない・・・それから、『地域』というと、一定の空間が中に含まれているような言葉になる・・・一種のテリトリーで・・・同時に、複数の概念としてとられやすい・・・個性に満ちた諸地域です」(注7) とし、「地域」という用語をこだわりを持って意識的に用いている。
 そして、中央の権力、中央政府を中心とした経済体制を変革して「地域分権」を進めることについて、「地方自治体に権限を譲っていくことは、日本の力を弱めるのではなくて、かえって強める結果となる。国というものを構成する身体諸器官を強めていくになると思います」(注8) と指摘している。
 教授の「地域」、「地域主義」、「地域分権」についての基本的な考え方が、この論文では示されているが、この昭和52年に書かれた論文を読んでいると、分権改革の時代を迎えて近年多くの研究者によって記されている数多くの著書や論文等が指摘する部分において似通っており、いかに日本における分権改革が

-----------------------

4 玉野井芳郎「地域分権の今日的意義」『地域分権の思想』 東洋経済新報社 1977年 2-11頁。
5 玉野井・前掲5-6頁。
6 同上7頁。
7 玉野井「著者にきく 地域分権の構築」 前掲『地域分権の思想』60頁。
同上62頁。

---------------------------------------------

遅々として進展することなく今日まで続いてきたのかということを改めて認識すると同時に、教授の洞察の深さと先見性に敬服した次第である。

4.なぜ自治体「憲法」が必要なのか
 なぜ「自治体憲法」が必要なのかについて、玉野井教授は、自治体憲法という言葉を用いて、「地域主義と自治体『憲法』―沖縄からの問題提起―」(注9) という論文を『世界』に掲載されている。
 その中で、なぜ自治体憲法が必要なのかということについて、次のように論じている。
 最初に、「『中央』そのものが地方分権、いや正しくは地域分権の確立を中央集権的に達成するというのは、もともと論理的矛盾ではないだろうか。(略)このさい各自治体は、地域住民の総意を体現して、『地方の時代』にふさわしい自主・自立の姿勢を国に対して表明しなければならないように思われる」(注10) とし、そして、中央集権的にことを進めると、国から地域に金と物が画一的に大量に投入されることによって、地域の方に混乱と荒廃が起こるということを予測している。そして、県や市町村というのはこのさい国の出先機関であることをはっきりやめて、自主・自立の対応をあらかじめ用意し試行する必要性を指摘している。
このように自治体の国に対する態度表明の必要性を指摘し、自治体の役割や意思決定について次のような場面、すなわち、土地と水の利用を含めての人間生活の日常性にかかわる諸問題、わけても生活環境、保育養老などにかかわる文化、生活上の諸問題については、「その決定の主体は、国や地方レベルにおける抽象的個人ではなくて、諸地域のレベルに位置する地方自治体であり、正しくはそれを構成する地域住民=地域に生きる生活者でなければならないことがわかる」(注11) と主張している。
 教授は、団体自治、住民自治についても、ドイツを中心としたヨーロッパの歴史的な経緯について触れているが、論文を読むと、ドイツ、ヨーロッパ諸国の団体自治の歴史や思想に関する研究の成果を感じる。そして、日本の憲法学で論じられてきた自治の根拠をめぐる「固有説」、「伝来説」、「制度的保障説」にも検討を加え、「従来の『伝来説』といい、『固有説』といい、見方によっては、前者は国の面から、後者は自治体の面から、ともに国と自治体を同一平面でとらえる誤りをおかしていたともいえるように思われる」(注12) と指摘し、これらの説について、「私がこの学説に言及したのは、むしろ論争に含まれる意味を、憲法学者の専門論争の枠内から取り出すための作業にすぎなかった。自治体の歴史的個性を再認識するための道を開きたかったからである」(注13) と思いを述べている。
 特に、この「住民自治」というものの捉え方について、従来の憲法学者の論じ方に疑問を投げかけ、自治体の憲法制定について、「すでにわが実定憲法は、自治体をたしかに国のひとつの制度として保障している。そして国と自治体とは明らかに異なった目的と機能をもっているはずである。そのような諸地方自治体が、国のレベルとは異なる諸地域のレベルでの具体的な文化・生活権の確定をとおして、それぞれに固有の自治、したがってまた自己統治の理念を明らかにしてゆくなら、地域的個性にあふれる多数の自立的な自治体の連合の基礎上に新たな国民国家を築きあげてゆくことも可能となってくるのではないだろうか。このような理念を明記する『憲法』をそれぞれも(ママ)自治体が制定することを試みても、今日の時点において不自然のそしりをこうむることはけっしてありえないように思われるのである」(注14) と指摘し、自治体の憲法制定の意義を強調している。

------------------------------------

9 玉野井「地域主義と自治体『憲法』」世界 408号 1979年 163-178頁。
10 同上・163-164頁。
11 同上168頁。
12 玉野井・前掲173頁。
13 同上・177頁。
14 同上・174頁。

-----------------------------------

更に、「地方の時代とは諸地域の時代のことであり、諸地域の時代とは諸自治体がそれぞれの本格的な「憲法」、憲章、または条例を制定する時代のことであるといってよいのではなかろうか。なるほどこれらは、いずれも法律の下位規範であるかもしれない。しかし、何が地域の生活者=住民にとって真に共通の利益となるべきであるかを自分自身の手で書くということは、法律にまさるとも劣ることのない『よいしきたり』をうちたてることを意味する。これが自治体の自己革新でなくてなんであろう」(注15) とし、地域の時代に自治体が自らの力で憲法、憲章、条例を制定することの意義を、「よいしきたり」という言葉を用いて強調している。
 次に、なぜ沖縄の地においてなのかという疑問に関連して、次のように論じている。「沖縄県という名の南方の島々に生きる人々がつくりあげてきている歴史的な社会的実体は、県という国の行政単位の枠をはるかにはみでるほどの大きさをもっているように思われることである」とし、その大きさを示す2つの事実群を挙げている。まず1つ目の事実群は、「沖縄県がかつてまぎれもない独立国家だったという厳然たる事実」(注16)ということで、琉球王朝時代のことなどにも触れ、黄金時代が沖縄にはあったとの指摘をしている。そして、経済学者の平良恒次教授の「琉球は明らかに、一国たるに値する伝統と文化をもっているということができる」(『日本国改造試論』講談社現代新書)との指摘を引用し論じている。
 もう一つの事実群については、「沖縄の人々にとって戦後から復帰までの期間が、ある意味で沖縄解放の歴史的瞬間の時期でもあったといえる」(注17) と指摘をしている。もちろん、さまざまな米軍占領の下での厳しい軍政についても触れているが、そのような歴史の中で、いろいろな沖縄の歴史とか伝統が再生してきのだと述べている。経済面においては、現在も様々な面で沖縄ブームがみられるが、その当時は味噌や醤油等であったようであるが、そういったものが50年代沖縄で盛んに製造されるようになっていると指摘し、また、B円を使いこなした歴史や、政治的には、45年の沖縄諮詢委員会の発足とか、沖縄では婦人参政権が本土よりも早く実現した点などにも触れている。そして、比嘉幹郎教授の論文(「沖縄自治州構想論」中央公論71年12月号)から、「沖縄の住民の長い自治闘争の結果、琉球政府は、立法・司法・行政の各分野において実質的に行使するようになった」、「憲法や地方自治法の精神からして、地方自治は、中央から委任される権限としてではなく、住民固有の権限として把握されるべきであろう」との部分を引用し、比嘉教授の説を、明らかに歴史実体説の見地からの固有説とみてよいとし、これまでの自治権をめぐる議論において沖縄の事例がいったいどの程度念頭におかれていたのだろうかと本土の学会論争に疑問を投げかけている。(注18)

4.沖縄自治憲章作成
 この憲章の作成はどのように進められたのだろうか。
81年の春頃、玉野井教授の呼びかけで憲章作成のための研究会が発足したが、玉野井教授はたまに出席される程度で、主に3名で議論をしたようである。
 西原教授によると(注19)、琉大の首里キャンパスで3回、それに大林・西原で1回、計4回の研究会がひらかれ、81年の7月には5章22条の7月案が作成された。
 7月案には、「前文」はなく、「第1章 沖縄の自治」、「第2章 沖縄の平和」、「第3章 住民の基本的権利」、「第4章 住民の生活」、「第5章 憲法の保障」という内容であった。その案に、玉野井教授が手を加え文案が完成し、それが「生存と平和を根幹とする『沖縄自治憲章』(案)」で、3章18

------------------------------------------------
15 同上・178頁。
16 玉野井・前掲174頁。
17 同上・175頁。
18 同上・177頁。
19 西原森茂「沖縄の地方性と政治」『自治の挑戦』沖縄国際大学公開講座委員会2003年 211-231頁。

----------------------------------------------

条で構成されている。完成した憲章には、「前文」が付され、「第1章 沖縄の自治」、「第2章 沖縄の生存と平和」、「第3章 憲章の保障」という内容になっている。
 この前文については、玉野井教授はこの案を発表する前に、西原教授に前文を書くよう依頼したようである。
 両案(注20) について、西原先生は「わたくしは、復帰運動の延長線上に沖縄の地方政治を、やや力みながら描いていますが、玉野井教授は、沖縄の人々の理想や権利は、非暴力の伝統や平和的な近隣外交に根ざすもので、そして平和への希求は生まれるべくして生まれたとされます」(注21) とその違いを述べている。
 このような経緯で憲章は作成されたが、玉野井教授は当初、研究会の基本条例案ではなく、「自治体憲法」という名称にこだわっていたようである。これについて、3名の議論の中でも大林教授と仲地教授は実定法の研究者の立場から、憲法の下に憲法というのが制定できるのかについて、かなり議論 (注22)したようであるが、最終的には玉野井教授が「憲章」と判断したようである。


6.憲章の内容
 次に、憲章の内容と若干のコメントを記してみたい。
「前文」の一段目は、「われわれは、沖縄に生きる住民、沖縄に生きる生活者として、自治、自立を目ざす理想および権利を有する」とし、それは「『守禮之邦』に象徴される非暴力の伝統と平和的な地域交流の歴史」に根ざすものであるという。二段目は、沖縄戦とその後の米軍よる占領下のもとでの「人間としての自由と権利を拘束された」苦難の経験を指摘し、三段目は、「核の脅威」の下にある世界と現在でも巨大な米軍基地を抱える沖縄の危機的状況を指摘している。四段目は、沖縄の復帰運動や平和運動を踏まえ、「日本国憲法および本憲章が定める権利を拡大、充実し、これを永く子孫に伝えることは、われわれ沖縄住民の責務」であるとしている。そして、「生命と自然の尊重を宣明し、生存と平和を根幹とする『沖縄自治憲章』を制定して、年来の自治・自立の理想と目的の達成を心に誓う」と結んでいる。
前文は、沖縄の歴史、経験、自然、現状を踏まえ、生命、平和、自治、自立を希求する内容となっており、玉野井教授の前述した二つの事実群の認識と理念が表れているものと思われる。
基本的な規定である「第1条 住民主権」の文言は、日本国憲法や川崎市の憲章をモデルにしたこともあり、憲法の表現に似通っている。「第2条 自治権」は、沖縄住民は「最高の意思決定者として自治権を享有し、その生存と平和のために、自治体を組織する」とし、生存ばかりでなく「平和」が入っている点に特徴がある。
「第3条 参加する権利」は、沖縄住民は、地域に関する問題につき、「10分の1以上の連署をもって住民投票の請求をすることができる」とし、「長は住民投票の結果を尊重しなければなら」ず、地域の利害に関する問題については、「地域の利害に関して住民集会を開くことを要求することができ」、「自治体の長は、住民集会の意思を尊重しなければならない」と規定している。更に、「自治体は、地域住民の意思が、最大限に自治体行政に反映されるように、行政手続きを定めなければならない」とし、行政手続きについても言及し、先進的な規定となっている。
 「第4条 知る権利」は、「沖縄住民は、地域の主権者として、必要な自治体行政に関する情報を請求し、利用する権利を有する。自治体は、具体的かつ積極的な方法により、自治体行政に関する情報を住民に提供するよう努めなければならない。自治体行政に関する情報は、公開を原則とする。情報管理に関す

------------------------

20 後掲の資料参照。
21 西原・前掲225頁。
22 岡本恵徳・新崎盛暉・仲地博「沖縄の『自治・自立』を考える-『沖縄自治憲章(案)を中心に-』前掲・新沖縄文学 63頁。

------------------------------------------------

る細則は別に定める」と規定している。那覇市が県内初の情報公開条例を制定したのが、87年であったことを考えると、情報公開の重要性をいち早く認識し規定化した点において先駆的であった。
 「第5条 プライバシーの権利」についても、「何人も、私的事項を侵害されず、且つ自己に関する情報をみずから統制する権利を有する」とし、自己情報のコントロール権を認める内容になっており、また、「自治体における個人情報の処理は、前項に定める権利を侵害しないよう、厳重に管理されなければならない」と個人情報の処理・管理についてまで規定するなど、先進的な内容となっている。
「第6条 権利の享有」については、沖縄に在住する外国人の基本的権利の享有にまで触れている点に特徴がみられる。
地域主義という側面が強く反映されていると思われる条項が、「第7条 シマの生活」であり、「自治体は、沖縄の社会的基礎であるシマ(字、区)の生活文化と自治を損なわないように細心の注意を払わなければならない」と規定され、また、「第8条 地域文化」は、「自治体は、沖縄が歴史的に独自の文化を創造し、日本文化において、重要な地位を占めていることに鑑み、この地域の文化を積極的に保護し、育成しなければならない。学校教育および社会教育は、ともに地域の文化と環境を基礎として、実施されなければならない」と規定している。さらに、「第10条 相互扶助と共同性」は、「相互扶助と共同性は、沖縄の民衆の伝統的特徴であり、沖縄の生活環境及び住民の生活権は、この伝統の上に築かれねばならない」と規定している。
 玉野井教授は、沖縄の社会、文化、教育などにも関心を示し、特に、この文化の問題に関しては、西表島を訪ねた際、三味線を弾いて一家が語らっている場面に非常に感銘を受け、それを教育の問題にまで発展させて、家庭における父親の存在等についても論(注23) じている。そのあたりの経験や思いなどが反映されているものと思われる。
 次に、玉野井教授の公害問題や、原子力問題等の研究成果が反映されているのが、沖縄の自然環境に係る「第11条 自然の共有」である。第11条は、「沖縄の自然は、住民共有の財産であり、その利用にあたって、濫開発は決して行ってはならない。何人も、沖縄の自然を汚染してはならない。沖縄住民及び自治体は、沖縄の誇る自然環境、生活環境および地域文化環境を良好に維持し、または改善するため、積極的に努力する責務を負う。われわれ沖縄住民は、廃棄物の排出と処理に最大限の注意を払い、水と緑の豊かな自然環境をつくりあげていくよう努めなければならない」と規定している。また、教授は沖縄在住後半の頃、特に入浜権等にも関心を持ち、それが11条の後半部分に、「入浜権と水利権は、相互扶助と共同性の伝統に基づき、かつ沖縄の自然環境にそなわる固有の慣行的権利として、確認されなければならない。沖縄住民は、日照、通風、静穏、眺望、および地域の文化環境に関する環境権を有する」として表現されている。
 以上の点は、玉野井教授の特に地域主義の理念があらわれている部分と思われるが、研究会の方では、教授の地域主義の考え方をどのように文書・規定化するかという点で苦労したようである。
 憲章のもう一つの特徴は、平和に関する規定である。「第12条 平和的生存権と平和的地域交流」は、「何人も、みずからの自由を守り、あらゆる恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」と規定している。「第13条 平和主義」は、自衛戦争を含むあらゆる戦争と戦争を目的とする一切の物的、人的組織を否定するとともに、「沖縄地域において、核兵器を製造し、貯蔵し、または持ち込むこと」を認めず、「核兵器搭載可能な種類の艦船、航空機の寄港および海域・空域の通過を認めない」と、徹底した平和主義を宣言している。
 第14条は、慰霊の日ではなく、「非核・平和の日」とし、「自治体は、戦争犠牲者の霊を慰め、恒久平和を確立する誓いの日として、『非核・平和の日』を定め、人間の尊厳および非核・平和の思想の普及に

---------------------

23 玉野井「人間・家族=家庭・地域を考える」『地域からの思索』沖縄タイムス社 1982年 15-26頁。

-----------------------------------------

努めなければならない」とし、自治体の平和への積極的な働きかけを求めている。また、住民に対しても、「平和をつくり、確保するために、具体的かつ積極的に行動する責務」を課している。
 「第15条 平和的生存権を確保するための諸権利」では、「軍事目的のための表現自由の制約を拒否する権利」、「軍事目的のための財産の強制使用、収用を拒否する権利」、それに「軍事目的のための労役提供を拒否する権利」を定め、平和に対する強い思いを示している。
 この憲章自体の保障に関しては、「第16条 最高規範」で、「この憲章は、沖縄における最高規範であり、あらゆる条例、規則は、この憲章に適合しなければならない」とするばかりでなく、「国の法令を解釈する場合は、この憲章に背反することのないよう務めなければならない」とし、法令解釈の際の根拠規定となるとしている。「第17条 審査委員会」は、この憲章を保障するための審査委員を設置し、「審査委員会は、一切の条例・規則または自治体の行為が、この憲章に適合するか否かを点検審査し、全住民にその結果を公表する権限を有する」と規定している。おそらくこの委員会は、違憲立法審査権を行使する裁判所をイメージしたものと思われる。「第18条 抵抗権」は、この憲章によって保障された基本権が侵害された際の、住民の国及び自治体に対する抵抗権と自治体の国に対する抵抗権を規定している。抵抗権を明文化した点は、憲法には明文の規定がないだけに、憲法や憲章の理念を再認識する特徴のある規定となっている。
 この憲章が、県レベルのものなのか、それとも市町村レベルのものなのかについては明確に示されているわけではなく、どちらとも読める内容となっているが、例えば3条の住民集会などは、その規模等を考えると、市町村レベルを想定しているように思われる。

7.おわりに
 研究会で起草された憲章は、その後、玉野井教授が手を加え、1985年の春、沖縄地域主義集談会に提案・議論され、さらにその後、平和をつくる沖縄百人委員会で二度議論されたようである。平和をつくる沖縄百人委員会では、この憲章は沖縄の独立を目指すものなのか、あるいは国に訴えられたらどうするのかなどの指摘(注24) があり、コンセンサスを得ることは出来なかった。しかし、玉野井教授は、あきらめることなく市町村長や議会を動かして制定を試みようと、仲地教授と北中城村や読谷村を訪ね、制定を働きかけたようである。(注25)
 結局、玉野井教授は、百人委員会で憲章について合意を得られず、また市町村での制定をみることなく沖縄を去ることになったが、分権改革がやっと動き始めた現在、改めてこの憲章をみてみると、この自治憲章案は、今後の基本条例を考える際の、立派な価値あるモデル案であると思われる。
 当時の玉野井教授の理念、状況認識から、教授の先見性を感じると同時に、教授の考えを受け憲章を草案された三名の教授の見識の深さとご努力に敬意を感じる次第である。近年の自治基本条例制定への動き等(注26) を考えると、当時、このような内容の憲章が作成されたということは、画期的・先駆的なことであり、仮に、この憲章が当時制定されていたなら沖縄の自治は、現在どのような姿になっていたのであろうか。今後の県内における自治・自立に関する議論の深化と自治基本条例制定にむけた動きに期待したい。

------------------------------------------

24 岡本・新崎・仲地 前掲・新沖縄文学60頁。
25 同上・仲地発言 62頁。
26 仲地教授は、すでに当時、自治憲章は、玉野井先生という権力の場にいないという、住民から提起された新たな、そして全国レベルで大きな可能性を持つテーマになることを指摘している。同上・仲地発言 71頁。

----------------------------------------




© Rakuten Group, Inc.